お通夜のあとに出されるあの食事。成人して、マイカーを持つようになった時期まで、ずっと、あれが、嫌いだった。
お寿司、唐揚げ、ポテトフライ、枝豆、サンドイッチ。ポテチを筆頭とした乾きもの。それから偉大なる「柿ピー」。
僕は大人になるまでのある一時期、そういった「お通夜の食事」を毛嫌いしていた。「味が口にあわない」といった嗜好の問題からでも、宗教的な問題からでも、お通夜の辛気臭い雰囲気からでもなく、ただひたすら一家庭の個人的な経験から嫌いになったのだ。憎んでいたといってもいい。

僕が20歳になる前に父が亡くなり、僕を生んでから専業主婦をやってきた母が、生活を支えるために働きだした。母の就職先は葬儀屋。葬儀屋の仕事は、お通夜が入ったときはどうしても帰宅が夜遅くなってしまう。
今、僕は44才、葬儀屋で働き始めた当時の母とほぼ同じ年齢になったからよくわかるのだけど、長時間の立ち仕事は体力的にかなりキツかったはずだ。それでも負けず嫌いな母は「何もできないけど夕飯だけはつくるからね」と言って、おそらく意地で、意地だけで、夕食の準備だけは自分でやっていた。

当時、母が職場でどういう仕事を任されていたのか、詳しくは知らない。
ただ、仕事に慣れるにつれ、任される仕事が増え、母の帰宅が夜9時や10時になることが次第に多くなっていった。

それでも母が夕食の担当を外れることはなかった。
僕が簡単な夕食をつくることもあったけれど、目玉焼き、焼き魚、カレーライスの三つを繰り返すことしか出来なかった僕の貧弱すぎるレパートリーと、料理のテクニックの問題もあり、頑として母はその役割を譲らなかったのだ。

四半世紀くらいの年月が流れたけれど今でも僕は「ごめんね、遅くなっちゃって」と申し訳なさそうに言う母の姿をいつでも頭の中に鮮明に再生することが僕はできる。

画像1: 親孝行エッセイ「かあさんの冷たいけど温かい弁当」フミコフミオ

そんな中、ある時期を境に状況が変わった。
帰宅が遅くなったとき、母がお弁当を持って帰ってくるようになったのだ。
ライスと唐揚げやポテトフライのような揚げ物、それからシューマイや揚げギョーザがセットになったシンプルな弁当だ。
その弁当が何日か続いたとき、僕はあるひとつの疑念にとらわれ、「いやいやそんなことはねえだろう」と疑念を振りほどこうとして思い直しては、またその疑念にとらわれる、多感な十代特有の、寄せては返す波のような、どうしようもないもどかしさを覚えるようになってしまった。

その疑念とは「母がお通夜の残り物を貰って帰ってきているのではないか」というもの。

オッサンになった今なら「傷んでなければ別にいいじゃん!タダだし」と割り切って食べられるが、子供すぎた僕は、残り物を持って帰ってくるなんて惨めだ、残飯を食べているなんて情けない、という苦い思いにしばらく苛まされた。
反抗のつもりでその「お通夜のお弁当」を食べるのを拒否したこともある。母は何もいわずに片付けていたけれども、何も言ってくれないことの方が、ずっと辛かった。

大学生4年生のときに中古車を買った。走行距離10万キロオーバーのボロの国産車だ。僕はそのボロ車で大学から帰ると、葬儀屋まで母を迎えに行くようになった。

夜の葬儀屋は、当事者でない僕には黒い服をきた人たちがコウモリのように見えて、異様だった。建物から小走りでボロまで走ってくる母を見るといつもほっとしたけれども、その感情も母の手にぶらさがったお通夜のお弁当を見つけると苦いものに変わっていったのをよく覚えている。

ある日のことだ。いつものようにボロを駐車場の隅にとめて待っていると母から電話が掛かってきた。記憶は定かではないが、確か、何か大きな荷物を持って帰らなければならなくなったので、運ぶのを手伝ってほしいという内容だったと思う。

一階のロビーで待ち合わせだったので、職員の人に身分を明かして場所を尋ねた。
職員の人は「あんたのお母さんすごいねえ」と切り出して母の武勇伝を聞かせてくれた。多分にリップサービスも含まれていたのだと思う。

職員の人の話はお通夜のお弁当になる。いつも持ち帰っているよ。あんたのお母さん。そういわれるのを僕は恐れた。耳をふさいでしまいたかった。だが、違った。
その人によれば母は、お通夜の食事を納品している仕出し業者に、帰りが遅くなるスタッフのためのお弁当を作ってくれないかと掛け合ったらしい。

安くて、傷みにくいものをお願い。母の姿が頭に浮かぶようだった。僕はとんだ勘違いをしていた。お通夜のお弁当はお通夜の残り物ではなく、チープで揚げ物ばかりだったけれども特別な母の思いがつまったお弁当だったのだ
なんかいっぱいになってしまって、その日の帰り道のことは覚えてないが、電子レンジでチンして温めなおした唐揚げはいつもよりジューシーだった気がする。

数年前に母は葬儀屋を定年退職して、今は、実家で洋裁をしてのんびりと暮らしている。のんびりでもないかもしれない。自分でつくった洋服や編み物をイベントやネットで売って、まあまあ稼いでいるのだ。
僕は実家に帰ると母のために食事をつくっているが、とてもお通夜のお弁当の罪滅ぼしにはなっていない。母のために僕が出来ることを考えながら、料理をつくっているけれど何も浮かんでこない。きっとまだそういう時期ではないのだろう……と構えてもいられない。母は健康そのものだがもう70才をこえているのだ。

鎌倉の鶴岡八幡宮に太鼓橋という橋がある。太鼓のようなアーチ型をしていて小さい頃、両親や祖父の手を借りてやっとこ渡った記憶がある。

画像2: 親孝行エッセイ「かあさんの冷たいけど温かい弁当」フミコフミオ

大人になったら僕が年老いた両親や祖父の手をひいて太鼓橋を渡るのだと子供ながらに思っていた。
祖父も父も亡くなった。太鼓橋は健在だが、今は渡れなくなっている(強度の問題らしい)。
僕は「そこにあるのに渡れない橋」と母とを重ねてしまう。当たり前のように以前と同じように存在していると思っていたものが当たり前の姿ではなくなってしまう。予告めいたものがあるかもしれないし、突然かもしれない。
母がお通夜のお弁当で僕の腹を満たしてくれたように、僕も母が母であるうちに僕なりの「お通夜のお弁当」を見つけなければならない。それはボーッとしているときに「ふっ」と湧いてくるのではなく、毎日ひたすら見つけようとしなければ落ちてこない種類のものだと、最近、僕は思っている。

フミコフミオ
1974年生神奈川県出身。大学卒業から運輸、飲食業界と渡り歩いてきた、目覚ましい実績もあげたことも地図に残る仕事も成し遂げたこともない平凡なサラリーマンブロガー。現在はワケあって営業部長となり、部下の労務管理と自分の健康維持に四苦八苦する毎日。どういうわけかネットメディアで連載もしている。
ブログ:http://delete-all.hatenablog.com/
twitter:https://twitter.com/delete_all

文・写真/フミコフミオ
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)

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