おめでたいことがあれば、お寿司を食べる家で育った。
お寿司は父の大好物だ。

お誕生日も、クリスマスも、入学式やピアノの発表会の日も。お祝いの日の夜には、母が買ってきたファミリーパックが食卓に並んだ。帰りが遅い父の分は、母があらかじめ別のお皿に取り分けておいた。私はそれを横目で見ながら、母と弟と三人でお寿司を食べた。

父はだいたい食事が終わるころに帰ってきて、私たちがお寿司を食べているのを見ても何も言わずに、冷蔵庫からよく冷えたビールを出してきて、それをコップに注ぎ、一人で飲み始めた。そして、隣に座る私が大好きなエビをたいらげてるのを見ると、「これも食べなさい」と自分の分のエビを箸で取った。私が「いいよ、大丈夫」と断っても、「いいから」と怒ったような声で言い、私の皿にそれをのせた。

私が高校生になる頃、父の羽振りが少しばかりよくなり、外食が増えた。昔ながらの洋食屋や風情のいいお蕎麦屋もよく連れて行ってもらったけれど、ここぞという日には、やっぱりお寿司だった。父は、店に入るとすぐに家族分の握りを頼み、お寿司が運ばれると、何も言わずにエビを私に寄こした。

仕事でほとんど家におらず、いたとしても黙って新聞かテレビのニュースを見てばかりいる父と話すのは、昔から苦手だった。もちろん、嫌いなわけはなかったけれど、会話をする時にはいつも緊張した。だから、エビをもらう時にも、私はモゴモゴとうめくような「ありがとう」しか言えなかった。

社会人になって一人暮らしを始めてからも、帰った実家の食卓に並ぶのはお寿司だった。そして、二十代半ばの頃、「結婚しようと思う」と学生時代からつき合っていた恋人を家に連れ帰ったときにも、当たり前のようにお寿司が用意されていた。

父と恋人は、お寿司をはさんで向き合い、ずっと真面目な話をしていた。景気がどうだとか、政治がどうだとか。父はいつもよりずいぶん饒舌で、恋人は見たことのない愛想笑いを浮かべ、私は居心地が悪くて、母の手伝いをする振りをして何度も席を立った。いつもよりもたぶんずっと上等のお寿司は、ほとんど誰からも手をつけられないままだった。

恋人と私が帰った後、半分乾いたお寿司をつまみにお酒を飲みながら、父は「俺なんかよりよっぽどしっかりしてるな」と寂しそうに呟いたのだと、後になって、母から聞いた。

画像1: 親孝行エッセイ「父とお寿司を食べに行こう」狩野ワカ

初めて父と二人でお寿司を食べたのは、その恋人との婚約が破談になって少し後のことだ。いつもは家族揃って行くお寿司屋の暖簾を一人でくぐると、奥のお座敷で父が待っていた。私が向かいの席に座ると、父は二人分の握りとお酒を注文した。

父に「寿司でも食べに行こう」と誘われた時から、私は「きっと、うんと慰められるんだろうな」と思った。お前は悪くないと慰められ、他にもいい男はいると励まされ、もう前を向けとたしなめられるのだろうな、と。母や優しい友人たちから散々言われたように。

だけど、早いペースでお酒を飲み、うっすらと顔を赤くした父が言ったのは、「お父さんはな、お母さんが大好きなんだよ」という言葉だった。私は、黙ったまま、時々お酒に口をつけ、うつむき加減で父の話を聞いた。生まれて初めて聞く父の想いに、どんな顔をしたらいいかわからなかったし、親とはいえ誰かのノロケ話は、失恋を引きずる心にヒリヒリと痛んだ。

父はそんな私の気持ちなど気にすることのない様子で、美味しそうにお寿司を食べ、お酒を飲み、「初めて会った時から、お母さんが好きだった」と語り、「何があっても一緒にいたいと思った」と話し、「だから、結婚したんだよ」と言った。そして、「ほら、これも食べなさい」と、いつものように、自分のエビを私の前に置いた。もうその頃の私は、エビよりもウニやコハダの方が好きだったけれど、そんなことは言わないまま、私は二人分のエビを食べた。相変わらず、うまく「ありがとう」は言えなかったけれど、母に対してのまっすぐな父の思いを前にして、それ以来、私はずるずると未練がましく取っていた元恋人への連絡を、きっぱりと絶った。

破談になった時、元恋人は「好きだけど、結婚はできない」と私に言った。その「好き」にしがみついていた私は、父の「好きだから、結婚した」という言葉を聞いて、そっちの「好き」の方がいいなあと思ったのだ。父の母への「好き」のような、温かくて深い「好き」をちゃんと見つけなくちゃと、エビを食べながら、私は心に決めたのだ。

画像2: 親孝行エッセイ「父とお寿司を食べに行こう」狩野ワカ

数年後、今の夫と結婚するときには、「相手と二人で話をしたい」と、父は夫をお寿司屋に連れて行った。てっきり「娘をよろしく」的なことを言うのかと思ったら、父は「まだ早いんじゃないか。考え直したら」ということを、しきりに夫に言ったという。夫が「いや、大丈夫です」と言ってくれたからいいものの、それで彼の気が変わっていたら、どうしてくれる気だったのだろう。

父なりの夫に対する試金石のつもりだったのか、それとも私よりずいぶん年下の夫を本当に引き止めたかったのかはわからない。ともかく、そのお寿司屋の対話で何かを納得したらしい父は、次の日には、「結婚、おめでとう」とメールを寄こした。

結婚直前の父の日、ごちそうしようと私が選んだのも、もちろんお寿司だ。私は、もう父との会話に緊張することもなかったし、差し出されたエビも「ありがとう」とにっこり笑って受け取れるようになっていた。そして、あの時のお返しとばかりに、これでもかと夫への気持ちをノロケてみせた。そんな私を、父は嬉しそうに眺めていた。

そういえば、あの時のお勘定。私がごちそうするつもりだったのに、席を立った隙に父に支払われていたんだっけ。「もうお会計はお済みですので」と言われ、驚いた私がお金を渡そうとしても、父は「いいから」と言って絶対に受け取ろうとしなかった。

いつかちゃんとお返しをしなくちゃと思いながら、あれからもう何年もたってしまった。これを機会に、久しぶりに父を誘って食事にでもいこう。食べるのは、当然お寿司。今度はしっかりごちそうできるように準備して、ちゃんと大人になったところを見せないと。だけど、これからも、父のエビだけは当たり前の顔をして食べる。だって、それは、娘の特権だから。

狩野ワカ(かりの・わか)
ライター。取材記事、エッセイ、小説などを執筆。自由奔放な3歳の娘と娘溺愛の夫との3人暮らし。本と欅坂46が好きです。
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文・写真/狩野ワカ
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)

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