80年代に渋谷で話題となった
人気のダイニングバー
渋谷駅からほど近い、車通りの多い明治通りに面した古びたビルに、歴史を感じさせるダイニングバーがある。「Boylston(ボイルストン)」だ。今年でオープンから39年になり、80年代に渋谷で遊んでいた人にとっては知る人ぞ知る店だろう。バーボンとアメリカ料理、そして70年代ロックを中心に流している、最先端のバーだった。
正勝さん「この店が人生の転機になったんだよ」
娘の玲奈さんを誘い、ボイルストンに訪れたのは、高田正勝さん(62歳)。現役のライターである父は、今年結婚する玲奈(れいな)さんとあらためてゆっくり飲んでみたいと考え、自分の原点ともいえるこのバーを選んだそうだ。
実は、正勝さんはボイルストンの社員第一号であり、初代店長として2年ほど働いた。店がオープンした1979年当時は、まだ明治通りに今ほど人通りがなく、飲食店も少なかったという。
正勝さん「もちろん渋谷は若者の街だったけど、人が集まるのは駅向こうの道玄坂のほうだったからね。高いビルも当時はそんなに建っていなかったんだよ」
玲奈さん「40年くらい前かあ。今の渋谷からは想像がつかないよ」
ビルの狭い階段を上り、雰囲気のある入り口のドアを開けると、店内にはアメリカ東海岸から輸入してきたという雑貨などが並ぶ。そして、70~80年代の懐かしいアメリカン・ロック・ミュージックが流れ、まるで本場のショットバーようだ。
アメリカ料理や洋楽を
楽しめる店として一躍人気に
正勝さん「この店に合う音楽を選曲してほしいって、当時のオーナーからお願いされてね。それがきっかけでここで働くことになったんだ」
正勝さんの友人だったオーナーはアメリカに留学した経験があり、現地で訪れたバーに魅せられ、帰国後にボイルストンを立ち上げる。本場の味を再現したメニューや、こだわりのインテリアなどをそろえ、出店の準備をしていたのだが、店内で流す音楽だけが決まらない。そこで、友人であり無類の洋楽好きだった正勝さんに声が掛かった。当時、24歳だった。
玲奈さん「どうしてそんなに洋楽が好きだったの?」
正勝さん「17歳の頃、テレビで観たピンク・フロイドのライブ映像に衝撃を受けてね。それまで吉田拓郎や井上陽水なんかを聴いていたんだけど、まるで世界観が違う音に一発でやられたよ。それから洋楽にどっぷりとつかるようになったんだ」
ボイルストンは開店当初、オーナーが店長を兼務していたのだが、一年後ほどで2号店となる高田馬場店をオープン。それを機に正勝さんが渋谷店の店長を務めることになる。その頃にはアメリカンスタイルのバーが渋谷で話題となり、平日でも行列ができる店として知られるようになっていた。その人気を支えた要因のひとつが、正勝さんが流す音楽だった。
若者のバイブルだった
雑誌『POPEYE』でコラムを執筆
正勝さん「常連に出版業界や音楽業界の関係者が多くてね。俺が選曲する音楽を気に入ってくれてたんだ。その中の一人が、若者から人気だった雑誌『POPEYE(ポパイ)』の編集者で、コラムを書いてほしいとお願いされたのが、ライターとして受けた初めての仕事だったんだよ」
玲奈さん「それまでライターなんかやったことなかったんでしょ? いきなり書けるものなの?」
正勝さん「そこは勢いとハッタリだよ(笑)」
好きな洋楽の話を自由に書いていい。それを条件に受けたライターの仕事は楽しく、さらに音楽の世界に夢中になっていった正勝さん。渋谷店もさらに繁盛し、順風満帆だったという。その頃のアルバイトには、俳優の風間トオルさんや「八日目の蝉」などを監督した成島出さんもいたとか。
玲奈さん「有名人がバイトするような店だったんだ!」
正勝さん「ほかにも超大物ミュージシャンの息子さんも働いたりして、知る人ぞ知る名店なんだよ、ここは」
本場の“音”を聴きに
ニューヨーク行きを決断
店長とコラムニストの二足のわらじを履いた生活を送っていた頃だった。正勝さんが密かに音楽の世界で身を立てたいという思いを抱いていることを知ったボイルストンの常連客から、「そんなに洋楽が好きなら、勉強がてら音楽の本場へ行ってみたらどうだい?」とアドバイスを受ける。ニューヨークの知り合いを紹介してくれるという。正勝さんはその一言に、渡米を決断。ボイルストンを退職すると、すぐにニューヨークへ飛んだ。1984年5月、28歳の時だった。だが、実際のホームステイ先はニューヨーク州北部、マンハッタンから高速バスで1時間も離れた場所だったという。
正勝さん「ほかに行く当てもなかったから、しかたなくそこに住んだよ。平日はバスで市内の英会話学校に通って、週末はマンハッタンのジャズクラブやライブハウスに入り浸って酒と音楽を楽しんでいたんだ。大変だったけど、今じゃいい思い出だね」
玲奈さん「でも、1時間も掛かる場所じゃ、大変だったでしょ?」
正勝さん「通ったのは3か月だけで、すぐにニューヨーク市内に引っ越したんだ。それからはもっと刺激的な毎日だったぞ」
正勝さんはニューヨークのタウン誌で物件を見つけると、ブルックリンに移り住み、イーストビレッジの寿司バーでアルバイトを始めた。そこでは、いかにも世界有数の都市ニューヨークらしい経験もしている。
正勝さん「まだ駆け出しの頃のホイットニー・ヒューストンが撮影のために店に訪れたんだよ。大物ミュージシャンの姪っ子だとかでデビューが噂になってたから、一応握手はしておいたよ」
玲奈さん「お父さんのことだから、どうせ偉そうに話しかけたんでしょ」
正勝さん「よくわかったな。がんばれよ、とは言っておいたよ(笑)」
人気バンドのドラマー
ダギーとの出会い
ブルックリンに半年ほど住んだ後、セントラルパーク脇の友人宅に居候し、そしてダウンタウンのプリンスストリートに2LDKのアパートを借りた。そんな折に、一人のニューヨーカーと出会う。80年代に世界的に活躍したフェイクジャズバンド、The Lounge Lizards(ラウンジ・リザーズ)のドラマー、Dougie Bowne(ダギー・バウン)だ。
正勝さん「友人が働いていたレストランで知り合ったんだけど、住む部屋を探しているって言うから、余っていたベッドルームを貸すことにしたんだ。同じメンバーのジョン・ルーリーや、マーク・リボとも一緒に飲んだりしてたんだぞ」
玲奈さん「誰それ、全然わかんない」
正勝さん「・・・・・・」
正勝さんはラウンジ・リザーズの日本ツアーにも同行するなど、メンバーと仲を深めていった。六本木に訪れた際は、坂本龍一とメンバーが酒を酌み交わす場にも居合わせている。また、そうした交流から日本の音楽関係者とも顔見知りになり、あるアメリカのバンドを日本で売り出したいという打診を受け、窓口となって奔走した時期もあったそうだ。
正勝さん「今思い返しても夢のような時間だったよ。まさに父さんにとって青春時代の象徴だな」
玲奈さん「で、結局アメリカにはどれくらいいたの?」
正勝さん「約2年半だね。帰国したのはたしか1987年の2月だったな」
玲奈さん「どうして帰ってきたの?」
正勝さん「親父、つまりお前のおじいちゃんが体調を崩してね。それに、いつまでも遊んでいられないから日本に帰ってきたんだよ」
妻との縁もつないだ
大切な場所
帰国後は音楽業界で働くことも夢見たが、以前にコラムを書いていた経験から記事を書く仕事を依頼されるようになり、ライターとしての人生をスタートさせたという正勝さん。音楽はあくまで趣味として楽しみ、取材や原稿作成に追われる多忙な日々が始まった。
玲奈さん「ねえ、ところでお母さんとの出会いは?」
正勝さん「実はそれもこの店がきっかけなんだよ」
玲奈さん「どういうこと?」
正勝さん「帰国した時、お母さんがボイルストンの運営会社で経理を担当していてね。店の仲間との集まりにも顔を出すようになって、自然とお付き合いが始まったんだったかな?」
玲奈さん「あ、ちょっと照れてる!」
妻とは徐々に距離を縮め、1991年に結婚。ほどなくして玲奈さんが生まれた。その名前の由来も、正勝さんの洋楽好きに起因している。エリック・クラプトンの名曲「Layla(レイラ)」がお気に入りの一曲であり、どうしてもレイラと名付けたかったそうだが、妻や家族などから反対され、今の名前にしたという。
玲奈さん「曲名から名付けるところがお父さんらしいよね」
正勝さん「だろ?」
玲奈さん「一緒にクラプトンのライブにも行ったしね」
正勝さん「最高だったろ? あれは感動したなあ」
親子飲みの場に
ボイルストンを選んだ理由
実は今回、正勝さんが親子飲みの場に「ボイルストン」を選んだのには理由があった。約40年という長い歴史を刻み、今も当時と変わらぬ雰囲気を醸し出すボイルストン。しかし、一方で経年劣化も進み、いつ見納めになるとも限らない。
正勝さん「お前にも見せておきたいと思ってな。父さんの青春が詰まったこの店を」
玲奈さん「ライターになったのも、ニューヨークに行ったのも、結婚したのもボイルストンがきっかけってことでしょ? 本当にお父さんの原点なんだね、この場所は」
父の若き頃の貴重な体験談を初めて聞いたという玲奈さん。「少し喋り過ぎたかな」と、照れくさそうな正勝さんのグラスに「いいじゃん、おもしろい話だったよ」とバーボンを注ぎ足すその姿が、普段の二人の仲を表しているようだった。正勝さんの大切な場所であり、渋谷の歴史のひとつでもあるボイルストン。玲奈さんにとっても思い出深い店になったことだろう。
ライター・編集/倉家祥行
写真/酒井俊春