都内のとある街にある小料理屋。ここはある特別なお客さんを迎えるためのお店。
特別なお客さんとは、ちょっとだけ不器用な「お父さん」。
そして、お父さんをおもてなしするのは、この日だけはいつもと違う、女将の顔になった「娘」。
今日は女将となった娘が、お父さんとの思い出の味を作ります。
そんな料理を前に、二人はどんな時間を過ごすのでしょうか。
一つ屋根の下に暮らしていても、すれ違い生活
かおりさん「お父さんと仲はいいけれど、劇団やバイトが忙しくて、ゆっくり顔を合わせる時間は少ないですね。そもそもお父さんが家にいることが少ないのかな。定年してからはボーリングや釣りなど、色々な趣味を楽しんでいるようです」
そう話すかおりさん。俳優業を生業とし、歴史ある劇団で座員として活動しています。夢は「一生面白い芝居に出続けること」だそうで、強い信念を持つ凛とした女性です。
かおりさん「舞台俳優をやっていると、売れるための下積みなどが取り上げられることが多いのですが、私は今の生活を下積みだと思っていないです。大きな劇場で有名な人が出ている公演以外にも素晴らしい作品はたくさんありますし、自分がやりたいと思えるものを続けられている今が幸せです」
ご両親も公演を観に来て応援してくれているそう。舞台に立って多くの人を魅了する娘の姿を、きっと誇らしく思っているはず。しかし、かおりさんは続けます。
かおりさん「応援してくれる両親に、まだ何も返せていないと思います。むしろすねをかじりっぱなしで情けない。いつか旅行に連れていったりして、両親と過ごす時間を大切にしたいですね」
そんな彼女に、今日は小料理屋の女将としてお父さんをもてなしながら、ゆっくりと二人の時間を過ごしていただきます。実はかおりさん、普段ほとんど料理をすることがなく、お父さんに手料理を振る舞うのも今日が初めて。
本日のお品書き。オススメは『我が家のおでん』
かおりさん「書けた! うーん、結構味のあるお品書きになったんじゃないかな……」
長々としたコースのお品書きを一発で書き終える本番の強さ。こういうところも俳優業には必要なのかもしれませんね。
かおりさん「お父さんはビール党なので、最初から最後までビール。酒飲みでつまみになるものが大好きだから、定番の冷奴や乾き物。あとはお刺身が好きで、中でもタコが好物なんです。寒くなってきたので、今夜はおでんも作りますね」
和装が似合うかおりさん。着物を着るのもお手の物で、割烹着も様になっています。
さぁ、早速料理に取り掛かりましょう。
まずは時間のかかるおでんから作り始めます。大根の桂剥きと面取りは難なくクリア。料理は全くしないと言っていたかおりさんですが、これは期待できそうです。
昆布や鰹、しいたけで丁寧に出汁をとり、醤油・酒・みりんで味付けたお出汁の中に下ゆでを終えた具材と、練り物、しらたきを入れて弱火で火を入れます。
おでんに味を染み込ませている間に、人生初の三枚おろしに挑みます。
かおりさん「お父さんはお酒が好きで、毎日家飲みしていますね。お母さんは料理上手で、いつもおつまみを作っています。私が家にいる日は一緒に飲んだりするけれど、外でお父さんと会って食事をすることはないですね」
「今朝は起きたらもう家に居なくて……。朝からボーリングだそうです(笑)。最高スコアが297とかなりやり込んでいて、私もたまに一緒に連れて行ってもらいますが、本気度が違います。でも、そうやって趣味を楽しんでいる姿は元気そうで安心します」
そう話しながら、慣れない手つきではありますが無事に三枚おろしを終えました。あとはお父さんの到着を待つばかりです。
定年後は趣味を謳歌しているお父さん
さぁ、お父さんの到着です。そっと扉を開けると、見慣れた娘の顔に安堵の表情を浮かべましたが、いつもとはちょっと違う雰囲気に緊張は隠せない様子。
そんなお父さんに、娘であるかおりさんのことを聞いてみました。
お父さん「かおりは出来の良い子。というよりは、私より優秀でねぇ。学校の絵やら工作の作品展ではいつも入賞していたので、毎回美術館へ観に行ったのを覚えています。小学校の頃は運動会で団長を務めるなど、アクティブな一面もありましたね」
「私は外資系の会社でエンジニアをしていたから、海外出張や試験などで忙しくてね。子育ては嫁さんに任せっぱなしだったなぁと思います。最近は舞台を観に行ったり、家にいるときは一緒にご飯を食べたりと、時間が取れていますね」
かおりさん「いらっしゃいませ。おしぼりどうぞ」
お父さん「お、ありがとう。なに、その格好は」
かおりさん「今日は私が女将になって、おもてなしします!」
お父さん「あら、そうですか。かおりの料理なんか食べたことないなぁ」
かおりさん「お父さんの好きなものとか、考えてメニューにしたんだよ。魚好きだから、お刺身とか……あとは寒いからおでんです」
お父さん「そうかい。じゃあ、とりあえずビール! というか、ずっとビールだね」
かおりさん「はーい」
かおりさんがお酌してくれたビールを嬉しそうに飲むお父さん。今日は朝から趣味のボーリングのトーナメントに出場していたそうで、まずは喉の渇きを潤します。
最初の料理が運ばれてきました。一品目はお通しの冷奴です。
かおりさん「いつもの定番、冷奴です」
お父さん「一丁!? ずいぶんと大きいね」
かおりさん「え? だって家ではいつも一丁食べてるじゃん!」
お父さん「えー、そうか。でも他にもあるのに、これでお腹いっぱいになっちゃうよ。もちろん、これは美味しいよ〜! でも料理じゃないからね(笑)。昔は大豆から豆腐を作ったもんだよ」
かおりさん「あー、お父さんはなんでも作っちゃうよね」
いつもとは違ったかおりさんとの時間に、ご機嫌な様子のお父さん。普段より口数も多めです。お豆腐でお腹いっぱいになる前に、二品目を用意します。
二品目は刺身の盛り合わせです。釣りが趣味のお父さんは、魚も上手に捌けるそう。かおりさんが初めて三枚におろした鯵のタタキはいかがでしょうか?
お父さん「おお、美味しそうな刺身だね」
かおりさん「鯵はスタッフさんに教えてもらいながら自分で三枚おろしにしたんだよ。あと、お父さんの好物のタコも用意しました」
お父さん「三枚おろしって、言ってくれたら教えてあげたのに〜」
かおりさん「じゃ今度教えてください」
お父さん「いやぁ、鯵は釣れないからなぁ……」
かおりさん「お父さんの場合は釣るところからなんだね(笑)」
お父さん「もちろん。でも初めておろしたこの鯵上出来だよ。タコも大きくて美味しい。お父さんの好物って、覚えててくれたんだね」
話をしながらゆっくりお酒を進めているうちに、メインのおでんが出てきました。秋冷えする今夜にぴったり。……あれ? このおでん、なぜか人参入りですね。
お父さん「大きながんもだねぇ。あ、人参もちゃんと入っていて、我が家のおでんですね」
かおりさん「そう、うちのおでんはなんで人参入ってるのかな?」
お父さん「そりゃ、お母さんのおでんだから、帰って聞かなきゃわかんないよ。……で、そろそろ落ち着いたかな? 一杯一緒に飲みますか?」
かおりさん「えー、やったぁ! ありがとうございます」
お父さん「はい、どうぞ」
二人「じゃ、かんぱ〜い」
かおりさん「うん、美味しい〜」
お父さん「あ! 今日はさ、話のネタにこんなのどうかなと思って持ってきたよ」
かおりさん「え? なになに?」
かおりさん「何これー! 私が書いた手紙? 四コマもある(笑)なんでこんなの書いたんだろう……」
お父さん「帰りが遅くて会えない日も多かったからね。たくさん手紙書をいてくれていて、他にもあるんだよ。……そう思うと、子育ては母さんに任せっぱなしだったね」
かおりさん「そう? お父さんとの思い出も写真も、いっぱいあるよ。色々なところ行ったよね?」
お父さん「母さんからはよく怒られたよ。『子どもとの時間は今しかない』って、休日出勤を引き止められたこともあったなぁ」
かおりさん「そうだったんだね、全然知らなかった。小さいころからミュージカルを観に連れて行ってくれたり、モダンバレエを習わせてくれたり、お父さんとお母さんが色々な経験をさせてくれたから、演劇の道を選ぶ一つのきっかけになったんだと思うんだよね」
お父さん「昔、母さんが演劇部だったからというのもあるのかな。だから、かおりが演劇をやりたいと言い出したときも、俳優を目指したときも理解があったんだろう」
かおりさん「二人が舞台を観にきてくれるのも嬉しいよ」
お父さん「好きなことをやれるのは良いことだね。お父さんにはよく分からない世界だから、頑張れくらいしか言えないけど、親から見てもよくやってると思うよ」
「役者っていうのは、ほんの一握りしか生き残れないというけど、自分のやりたいことがわからなくて仕方なく仕事をしたり、悩んだりしている人が多い中で、夢を見つけて生きているのは、親としては何よりも嬉しいことだよ」
かおりさん「そんな風に思っていてくれたんだね、ありがとう」
お父さん「もう一杯飲もうかな」
かおりさん「私も、いただいちゃおうかな」
生まれてからずっと一緒にいても、知らなかったことや気が付かなかったことがそれぞれにあるのかもしれません。カウンター越しに目を合わせ、お互いの胸の内や思い出を語り合った二人のお話はここまで。
まだまだ話の尽きない様子の二人。この後は親子水入らず、ゆっくり秋の夜長を味わうことにしたようです。
一番近い存在だからこそ、意外と知らない胸の内。いつか聞いてみたいときは女将になって、お父さんをもてなす時間を作ってみてはいかがでしょうか?
ライター/板橋葵
カメラ/高山諒
編集/大月真衣子