中学2年のとき、東京で開かれるオフ会に行かせてくれと両親にすがったことがある。「ネット友達の同級生も一緒に参加するから心配ない」「相手の写真も名前も知っている」「参加者はみんな高校生で、女の子もいる」「毎日のように掲示板でやりとりしていて、どうしても会ってみたい」「21時までには帰るから、お願い」――。

2006年。数日間の交渉の末、私はオフ会参加の了承を得た。

母は「ダメって言ったら、あなたは嘘をついて、隠れて行くでしょう。隠れて行かないでほしいからOKするのよ」と言った。

私にもし13歳の娘がいたとしたら、オフ会への参加を許せるだろうか。

母は、祖母になんでも反対されていた

父と母は、私の「やりたい」をほとんど許してくれた。テレビゲームの時間を制限されたことは一度もない。Zipperのモデルに憧れて、ビビッドなセーターやニーハイを身にまとうことも咎められなかった。タイやトルコ、モロッコへのひとり旅も。スイス留学も。車中泊して日本一周するのも。愛媛に単身で乗り込みバーテンダーやるのも。15歳年上のバツイチ男性と結婚するのも。

どこへ行くにも何をするのも、許してもらった。すべて事前に「ここへ行きます」「こんなことをします」と伝えていれば。

画像: 許されレベルが垣間見える、幼少期時代の私

許されレベルが垣間見える、幼少期時代の私

母が私を許容するのは、祖母との“戦い”があったからだと思う。

祖母はひどく教育熱心だったという。口を開けば「勉強しろ」「ちゃんとしなさい」。とはいえ自立心をあおるわけではなく、家を出るなんて言語道断だった。祖母に一人暮らしを提案すると、「やれるものならやってみろ」「親への感謝が足りない」と叱責されたという。

祖母はなんでも心配し、干渉し、反対することで、母(娘)をいつまでも手中におさめておきたい人だったのだ。

なかば祖母を裏切るようにして、母は17歳の頃に、アメリカ留学を断行した。それから進学、就職、結婚、出産、子育てを経ても、祖母との戦いは続いた。会えば小言を言われ、母は思春期の娘のように反抗した。

半世紀以上続いたそれは、2015年に祖母の死をもって終戦した。祖母の記憶の中で、母はずっと「言うことを聞かない娘」である。

画像: このときの母はまだ、戦っていた

このときの母はまだ、戦っていた

そうして、どこへ行くにも何をするのも反対されて育った母は、完璧なる反面教師で私を育てた。

「心配してるけど、信じてる」

母は私が遠くに行くとき、毎回こんなことを言う。「心配してるけど、私とお父さんの子だから、大丈夫だって信じてる」「もう無理だと思ったら、帰ってきていいから」。

母に愛されて育ち、ひとりの人間として認められているという自負は、私にたくさんの勇気と自尊心をくれた。恵まれた環境だったと、今は心の底から思う。

画像: 母、私、兄、父。横浜に住む小さな家族だ

母、私、兄、父。横浜に住む小さな家族だ

今回この記事を執筆するにあたり、与えられたテーマは「お母さんに『ありがとう』とLINEしてみた」だった。私にとっての母への感謝は、いつも許してくれてありがとう、いつも心配かけてるのに背中を押してくれてありがとう、という文脈が一番しっくりくる。

先日東京まで遊びに来てくれたお礼に、LINEを送ってみた。

画像1: 「心配してるけど、信じてる」

ついでに、といった具合の照れ隠しな感謝である。

画像2: 「心配してるけど、信じてる」

母の返答にある通り、今度私はひとりでヨーロッパに遊びに行く。26歳の今になっても、「事前告知」のルールは変わらない。私たち家族はそうやって信頼しあってきた。

画像3: 「心配してるけど、信じてる」

見守ることの難しさと大切さを、過干渉な祖母から学び取った母。私はその恩恵を、本当にたまたま、幸運にも、受けているだけである。

画像: 「母〜〜〜」としか言えない、語彙力のない人間に育ってしまった

「母〜〜〜」としか言えない、語彙力のない人間に育ってしまった

制限するのは簡単だ。制限しないやり方を、母はずっと選んできてくれた。母の元に生まれてよかった。私が後悔のない日々を送れている最も大きな理由だと思う。

執筆/ながち
編集/プレスラボ

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