「エッセイを書くことになったから、小さい頃の写真、ちょっと探してみてくれないか」

そう実家の母にショートメール(いまだに母はガラケーである)で伝えると、僕はそのまま布団にくるまって寝てしまった。8月なのに夜は18°まで気温が下がる。弘前に移住して4年目の、32歳の夏だ。

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熱血漢で知られるあの松岡修造氏も、かつては怠け者の次男だったというエピソードを聞いて、少しだけ親近感を覚えたことがある。次男はいつだって、「刺激」や「挑戦」といったクリエイティブなワードよりも、「安定」や「効率化」といったコスパ重視の思想が心地よい生き物なのだ。

画像: 次男の代表格のような僕(真ん中)。やる気のなさが全面に出ている

次男の代表格のような僕(真ん中)。やる気のなさが全面に出ている

実家に帰って食卓を囲めば、「あんたは全然泣かないから、本当に手がかからなかったわ」と母はよく言う。今思えば、わがままを言っている兄の背中をずっと見ていた僕は、母に楽をさせてあげられるように人生を遂行することこそが、次男のミッションだと思い込んでいたのかもしれない。

そんな空気が兄にも伝わったのか、家ではドラクエのレベル上げ大臣に任命されてしまった。データが消えてしまわないように、お祈りしてからカセットをフーフーしてスイッチを入れたことを覚えている。僕の「ぼうけんのしょ」は、見慣れた街や仲間と一緒に、見慣れたモンスターをやっつける未来だった。

しかし次男というものは、他とは違う、ゴーイングマイウェイな生き方を模索する生き物でもある。

僕はドラクエが大好きだった。おさがりの服でも、同じ学校でも、新発売の唐揚げを食べる順番も2番目でいい。だけど、ドラクエだけは兄より先にクリアしたかった。「ミルドラースの『かがやくいき』は強力だから、序盤にフバーハを使ったほうがいいよ」と兄に教えてあげたかった。誰もやらなかったことを、僕が最初にやってみたい。

自分の中にいる「もう一人の次男」の存在を、僕は母に気づかれないよう細心の注意を払っていた。真面目に漢字ドリルをやりながら、実はノートにダジャレを書いていたこと。ラジオの恋愛ポエムコーナーに「きんたま」というペンネームで毎週応募していたこと。ホームページを作って、「なんでもぼくのこと聞いていいよ掲示板」を開設したこと。

その間も僕は順調に進学をして、ほどほどにバイトも恋愛もして、バンドも始めて、新卒でサラリーマンになった。安定感のある次男というアクターを見事に演じ、母には心配や迷惑をかけずに成人を迎えられたのではないかと思う。

画像: 親孝行エッセイ「そして次男は赤くなった」りんご飴マン

だけど、困ったことが1つだけある。

あれから年を重ね、いつの間にか僕の顔は真っ赤になってしまったのだ。

生まれも育ちも1mmも関係ない青森県で、「りんご飴マン」というもう一人の次男は、インターネットに疎い母に隠れて活動していた。観光で訪れた土地に恋をして、PRに貢献しようと勢いで移住まで決めてしまった。優しくしてくれた人たちのために何かできることはないかと、今日も街を歩いている。この顔で。

いつ、どうやって親にこれを打ち明けようか。真面目で大人しいはずの僕がこんな姿になっていたら、心配性の母は卒倒するかもしれない。

妄想だと思われるのが怖かったから、地元新聞で取り上げられたインタビュー記事を切り取って、母に見せた。
記事を読み終わると、笑顔で母はこう言った。

母「あんたは、昔から変なことが好きだったものね」

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親孝行とはなんだろう。

それはきっと、誰も知らない僕だけの「ぼうけんのしょ」を謳歌することだ。

頑張るぞ、負けるな次男。

P.S あれから母は、僕のツイッターを毎日チェックしている。

りんご飴マン
りんご飴の魅力に取り憑かれた通称「生ゆるキャラ」。生まれも育ちも東京ながらりんごの街・青森県に恋をして2015年に移住。優しい人たちに囲まれながら、今日も肌を痛めています。

文・写真/りんご飴マン
編集/サカイエヒタ(ヒャクマンボルト)

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