2005年の8月3日は私の記念すべき20歳の誕生日だった。
年に1度やってくる誕生日、その中でも20歳の誕生日はいつもの誕生日とは少し異なるアニバーサリー感がある。大人の仲間入りをし、いろいろな人から「おめでとう」の嵐に包まれるような特別な1日になる。はずだった。

ただその日、私はほぼ誰にも「おめでとう」とは言われなかった。集まった人の数はなかなかの規模だったのに。今まで会ったこともないような親戚もいたし、会をスムーズに行うスタッフもいたのに。ただ多くの人が私に「おめでとう」とは言わなかった。

理由はこの会が母のお葬式だったから。誕生日会ではないのだ。母は私の20歳の誕生日の前日に亡くなり、私の誕生日がお葬式となったのだ。私の誕生会と前向きに考えても今後ないだろうという規模の会だった。ただその会は確実に誕生日会ではない、お葬式だったのだ。

画像1: 親孝行エッセイ「最後の親孝行」地主恵亮

母は私が高校生の頃に乳癌になった。寒い冬のある昼、母は弟と私を連れて近所の食べ放題のお店「すたみな太郎」に連れて行き、肉のたくさんのった皿を前に「癌になった」と発表した。私も弟も驚いたけれど、とりあえず食べた。母も食べた。ホルモン系の肉を食べる時はいつもより多めに噛んで食べたと思う。地主家は肉も寿司もケーキもソフトクリームもある、すたみな太郎が大好きなのだ。

そのあと、母は手術をしたが、他の場所に転移しており、余命は半年と宣告を受けた。しかし驚くことにこの宣告はこの後も2回くらい聞くことになる。生命力の強い母は最初の宣告から3年ほど私たちを見守ることになる。この間に私は高校を卒業して、東京の大学に入学した。

大学の合格を母は喜んでくれた。母と一緒に東京の家を探しに行き、東京タワーにも登った。初めて見る東京は九州の片田舎とは違い、ビルはどれも高く、電車はひっきりなしに来るし、すごいね、と話した。もっとも私の住む家は小平市だったので、実家よりものどかな場所だったけれど。

死ぬまで3年という猶予は地主家にとってはいいことだった。笑って死のう、ということで、家族でいろいろな場所に出かけたし、私は長い休みになるとすぐに実家に帰った。その結果、お葬式を、少なからず私と父と弟は、笑って迎えることができた。
母の遺影は母の胸にクワガタが止まっているところだった。死ぬことが決まってから、私が好きなカブトムシ捕りを家族みんなでしたときのものだ。父は「なんかカッコいいから」という理由で葬式屋の人にCGでカブトムシにできないか、と無理なお願いをしていた。

母の亡くなる前日の夜、私は母と二人で病室にいた。その頃はすでに脳に癌が転移していて、母の記憶は飛び飛びだし、話し方もいつものような力強さはなかった。私が誰かわからない時もあるので、話す時は「ケイ君が食事をもらってくるね」と自分で自分のことをケイ君と呼んで母に存在を知らせていた。すると母は私を認識して「ケイ君、サンキュー」といつも返してくれた。

ただその夜、母が眠る前に、急にいつもの母に戻った。「私はもう死んでしまう。ケイ君やユウ君(弟)の未来を見られないことは悲しい。ただ私は楽しかった。これからもあなたたちはきっと楽しいはずだから、夢を叶えなさい」といつもの口調で私に話した。そして、「ハワイに散骨をして欲しい」と続けた。
私はハワイに散骨することを誓い、母は眠った。

母は次の日に亡くなり、その後火葬して骨になった。骨は納骨まで母の実家に置いていた。そこに寝泊まりしていた私は、夜に起きて、こっそり骨壷から母の骨を取り出し、散骨するために一部を削り、百円ショップで売っているような調味料を入れるボトルに骨を入れた。本来はお墓に骨を入れないといけないのけれど、私は母とハワイに散骨する約束をした。その最後の親孝行をどうしても成し遂げなければならなかったのだ。

その日から約10年。私はハワイのワイキキビーチに母の骨が入った調味料のボトルを持って座っていた。私は大学を卒業したけれど、どこかにキチンと就職をすることはなく、ブラブラしたり、フラフラしたりしていた(今もそうだけど)。その間にどうにかお金が貯まり、ついにハワイに行けるようになったのだ。あの約束から10年もかかってしまった。

ハワイの砂浜は白く、空は青く、海は透き通っていた。水着の女性はみなグラマラスだった。初めてのハワイ、母と一緒に来たことになる。これが母の来たかったハワイなのかと思いを巡らせた。

チャーターした船に乗り込み、散骨に行った。事前に母が好きだった音楽を持ってきてください、と言われていたので、データを船のスタッフさんに渡していた。船の進む先はどこまでも青く、振り返るとスクリューで白くなった軌跡が残っている。遠くにはダイヤモンド・ヘッドが見えた。

散骨を、とスタッフに促され、ボトルから母の骨を手に出して海に撒こうとしたら、そのタイミングで「ゴーストバスターズ」と元気よく音楽が流れた。母の骨はゴーストバスターズという元気な掛け声と共にハワイの海に舞い、やがて静かに沈んで行った。

散骨が終わり、港に帰る船で椅子に座り、遠くの海を見ると母の声が聞こえた気がした。「ケイ君、サンキュー」のあの声が。

といい感じで終わろうと思っていたら、港で船長の操船がうまくいかなかったらしく、停泊していた他の船にぶつかりそうになった。船長が慌てて、操船室から飛び出し、停泊していた船を押そうと足を伸ばしたら、距離が思っていたより遠かったらしく、盛大に海に落ちていた。

現地に住むスタッフからはハワイでは水着でスタバに行けると教えてもらった。せっかくなので、三角形の水着でハワイのスタバに行った。日本だったら大変なことになっているけど、誰も何も言わない。これがハワイなのだ。

画像2: 親孝行エッセイ「最後の親孝行」地主恵亮

この開放感。
母も水着でスタバに行きたかったのかもしれない。だからハワイを希望したのだろう。わかるよ、お母さん。すごい開放感と興奮があったよ! これは癖になるね! お母さん、サンキュー!

画像: 最高です!!!

最高です!!!

地主恵亮
1985年福岡生まれ。フリーライター。思い立ったが吉日で行動しています。地味なファッションと言われることが多いので、派手なメガネを買おうと思っています。

文・写真/地主恵亮
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)

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